宝暦5年
(1755)
1755年(宝暦5年)の創業当時の蔵(上の蔵)を現在もそのまま酒造りに使っています。
天保13年
(1842)
〜
嘉永元年
(1848)
当蔵の12代当主の高井鴻山(市村三九郎)は小布施の文化人であり、葛飾北斎を江戸から3度も招き、パトロンとして葛飾北斎の生活や創作活動を支えました。上町祭り屋台が完成した際に下戸だった北斎と共にお酒を酌み交わしたそうです。
大正12年
(1923)
明治時代に入ってから、それまでの塩問屋・なたね油・お茶をやめて酒造業のみとなり、大正12年に小布施果實加工株式会社(小布施堂の前身)を設立。「栗鹿ノ子」や「栗羊羹」の物語はここから始まるのですが、それはまた別の機会に。
昭和
(1926~
1989)
昭和に入り世情に暗雲立ち込める頃、酒造業界も例に漏れず、往年の代表酒「櫻川」は製造中止に。高度経済成長期に入った頃、親戚で交流のあった6社の造り酒屋で共同出資し雲山銘醸株式会社(共同瓶詰工場)を設立。1959年に共同銘柄「雲山」を開発し、それに伴い「白金」の醸造をいったん休止となりました。
平成
(1989~
2019)
1990年代、大吟醸純米生酒「碧漪軒」「鴻山」を皮切りに、桝一独自の銘柄開発へ。1997年、店舗の改装や「蔵部」の建築など大胆な改革が行われました。また「雲山」の代わりとなる新銘柄を開発。屋号の□一(ますいち)に、酒造りの原点に戻るという志を掛け合わせた「スクウェア・ワン」は、現在でも蔵を代表する酒です。
2000年に入ると、日本で初めてとなる木桶仕込みの復活を実現。創業時の代表銘柄「白金」を、往時と同じ酒造米「金紋錦」を使い、木桶で醸し出しました。その後、もち米で仕込む「櫻川」を「州」と名を改めて復活させたり、どぶろくをイメージした「ろく」を醸造したり、高精白(20%)の純米大吟醸生酒「応龍」を開発したりと、ラインナップの幅を広げています。
令和
(2019~)
桝一が江戸時代から絶えまなく酒造りをして来られたのは、お酒を飲んでくださるお客様、事業を推進してきたご先祖様、酒を造り販売してきた従業員のおかげです。一寸先の見通しがままならない昨今ですが、今後も昔ながらの製法を守り、新しい酒造りに挑戦してまいります。